国人領主の一人であった田村氏は初め守山(一説には八丁目)城に拠っていたが、戦国時代に田村郡(田村庄及び小野保)内の在地領主を従えさせて、田村郡内における最有力者となり、戦国大名化した。これを端的に表すのが1504年の田村義顕による三春城への移城であろう。
領内には俗に「田村四十八館」とよばれる支城・出城を構え、要衝に一族・一門を配した。田村氏は篭城には向かない三春城の立地上、支城・出城のネットワークを用い、積極的な対外攻勢を常とした。家中には義顕の弟で月斎と号した田村顕頼のような軍師がおり、周辺諸氏からは「攻めの月斎」と恐れられ、「畑に地しばり、田に蛭藻、軍に月斎なけりゃよい」と謳われた。
その支配領域は近世に田村郡を支配した三春藩が5万5,000石であったので同程度と考えられがちであるが、田村氏の支配領域の石高はもっと多く、「田母神氏旧記」などにみられるように9万8,000石程度であろうと考えられる。当然時期によって盛衰があり、最盛期は安積郡や安達郡、岩瀬郡の一部が含まれ、10万石以上とも考えられる。
もっとも、豊臣秀吉による太閤検地までは貫高制であったこと、および田村氏は田村庄の庄司職を掌握することによって領内を支配し、田村庄は戦国時代末期まで続いた全国的に見ても特異な荘園であることを付記しておく。
このように戦国大名化した田村氏であったが、外部には蘆名氏、相馬氏、佐竹氏、岩城氏などの周辺諸大名からの侵攻があり、内部には大名権力による家中掌握が弱かったため独立性の強い在地領主層の抵抗・離反などに悩まされた。伊達氏とは友好関係であったが、後述するように安積郡を巡って衝突している。 義顕の子で三春城主田村隆顕は、伊達稙宗の娘を妻に迎え伊達氏の支援を受けるようになり、この窮地を脱している。隆顕の後を継いだ田村清顕も四面楚歌に陥ったが、伊達政宗に自身の一人娘である愛姫を嫁がせることで伊達氏と手を結び、田村氏の独立と版図を維持した。また隆顕、清顕の時代に積極的な対外攻勢に出ることができたのも伊達氏の後ろ盾があった故とも言えよう。(義顕の時代までは安積郡方面への侵攻を主としたが、仙道を南進する伊達氏と衝突したのちは岩瀬郡や石川郡、あるいは安達郡などへの攻勢に転じている。隆顕と伊達稙宗の娘の縁組も安積郡での伊達氏優位の和睦を受けてのことと考えられる。)
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清顕には男子がいなかったため、1586年に清顕が急死すると、清顕後室を立て、家中が一致結束し自存していく方針を血判し確認した。だが、頼みの綱である伊達政宗と愛姫の不仲が伝えられていたこともあり、清顕後室が相馬氏の娘であった関係から相馬氏を頼ろうとする相馬派が田村顕盛(梅雪斎と号した隆顕の弟で小野新町城主)を筆頭として台頭し、清顕の遺志を尊重し伊達氏を頼って愛姫に子が誕生するまで自存するとした伊達派と対立した。このような中、1588年に田村領を狙った相馬義胤が田村家中の相馬派と結んで三春城入城を企てた。しかし、家中伊達派の筆頭橋本顕徳らにより相馬軍は三春城揚土門まで登りつつも退却させられ、その後これに端を発する郡山合戦が起こった。これは相馬・佐竹・芦名・二階堂連合軍と伊達・田村軍が郡山にて対決したもので、実質的に相馬家と伊達家の田村領をめぐる戦いである。勝利した伊達政宗は三春城に入城、清顕後室を隠居させ家中相馬派を一掃した。そして、清顕の甥である田村孫七郎を三春城主に据え、宗の一字を与え田村宗顕と名乗らせた。宗顕の父は清顕の弟氏顕で清顕と同母であるので宗顕もまた伊達氏の血を引いている。これら伊達政宗による一連の相馬家の影響力排除を「田村仕置」と呼ぶ。
なお、これによって田村氏が独立を失い、伊達氏家中に含まれたかのような説明がされることがあるが、そうではない。これ以後伊達氏の影響力が強まり、また宗顕も田村家中も政宗へ依存したが、宗顕は政宗と愛姫の子供が生まれるまでの「名代」とされ、中継相続人として期間限定的に田村家の家督を継いだと考えられる。このことから、伊達家の軍事的な配下ではあるが、あくまでも独立領主としての地位を保持していたと考えうるのである。